「大丈夫か?」
ふと目を開けると、男の顔があたしを覗き込むように見ていた。
「〜〜〜…!!!わわっ!!!」
光姫は手を後ろについて上半身を起こすと、素早く後ずさりした。が、その瞬間ひどい眩暈がした。目の前にチカチカと細かい白い光が見える、それに気持ちが悪い。光姫はがくっと力が抜けたように、再び起き上がる前のように仰向けに倒れてしまった。
「いたぁ…。」
倒れた瞬間、頭を打った。
「無理すんなよ。お前ひどい熱中症なんだぞ。まだ体温高いだろ。これ飲んでもう少し寝とけ。」
男は木製のお碗にたっぷりと入った水を光姫に渡した。
「あ、ありがと。」
光姫は今度はゆっくりと体を起こすとお碗を受け取った。男は少し移動して、光姫の背中を支えると、水を飲むのを補助してくれた。意外と優しいんだ。意外とっていうのも少し失礼かな。よく見れば、透き通るようなオレンジがかった茶色い瞳のソース顔のいい男。地毛がやや明るい茶色のあたしの髪とよく似た飴色のちょっと長めの髪。ジャニーズ系って、こういう人のことを言うのかも…。あたしはぼうっとした頭で、なにやら関係のないことばかり考えていた。
「御頭…御頭!」
厚手の布の向こうから声が聞こえる。その時になってやっと気が付いた。あたしが今いるのは、とても広くて解放感のあるテントの中だったんだ。厚手のテント地が外部の熱を遮断しているのか、この中はとっても涼しい。
「御頭、氷の追加持って来ましたよ。…いいんですか?こんなに使っちゃって。向こうに着くまでギリギリの分しかもう残ってませんよ。」
「次のバザールで買い足せばいいさ。ありがとな。」
御頭と呼ばれた男の方が、呼んだ男よりもずっと若い。そういえば歳若い人だよね。あたしと同じくらい…ううん、2つか3つくらい上なのかも。
「あなた…誰?」
男が自分の方に振り返ったのでタイミングよく光姫は尋ねた。
「俺はハイゼ・ルーファス。あんたは?」
「あたしはミツキ・コーサカ…」
この世界で何よりも役に立ったのは自分の名前だった。こっちの世界の商店街みたいなところ(今バザールって言ってたっけ)で、光姫はよく人々を話す機会を持ち、名乗る事もしばしばあった。それはこの世界のことが知りたかったから。おかげで予備知識をもつことができたんだ。苗字の一部に伸ばし棒の要素があるせいか、現実世界で普通の名前はこちらの世界でも違和感なく受け入れられていた。
「ミツキ…いい名前だな。それで、なんであんなところに倒れてたんだ?俺たちが通りかからなかったら干からびて死んでるとこだぞ。」
「そうだね。助けてくれてありがとう。」
ハイゼの渡してくれた氷嚢を、右の頬にあてがいながら光姫は答えた。
「あたし…あたし帰れなくなっちゃったの。それでどうしようって考えてるうちに何も考えられなくなって…」
「そりゃそうだ。どうせうろたえるなら日陰でやれ、今度からな。で?お前はどこに帰りたいんだ?」
「どこって…」
光姫はハイゼから目をそらした。「東京の高校の旧校舎に」なんていったら、きっと「熱中症だからな」って言われるに決まってる。
「どこって、その時にならないと帰れないところ。きっと今は無理なんだわ。すごく帰りたいのに帰れないもの。」
「…氷嚢、もう少し首筋とかにあてたほうがいいんじゃないか?」
ほら、信じてない。バカにしないで、頭はぼんやりしててもあたしは正気よ。だって…だってそれ以外にどういえばいいって言うの?悲しくも悔しくもないのに、涙があふれてきた。そうだ、淋しかったのかもしれない。ハイゼが茶化してくれたおかげで、ようやく安心できたんだ。あたし、今一人でこの世界にいるんじゃないって。
「…大丈夫か?」
「うん。ごめん。」
光姫は両手で目を押さえながら、涙声で返事をした。あぁ…でもどうしよう…涙が止まらない。さっきお碗で飲んだ水が全部目から出て行っちゃうみたい。心は冷静だからこそ、泣いているのが何だか余計恥ずかしい。
ハイゼは「大丈夫か?」って聞いた後は、何も言わなかった。さすが若頭っていうのかな。女の子が泣いているのに落ち着いている、悔しいくらいにさ。でもその代わり、ハイゼは光姫の額に手を置くと、優しく髪を撫でた。光姫の長くてゆるくウェーブした髪を何も言わずに触っていた。そしたら…なんて不思議なんだろう。涙が少しずつ収まっていった。
「俺たちと一緒に来るか?ただ帰れる時がくるのを待つっていうのも味気ないだろ。色々と回っていけば何か分かるかもしれないしな。」
「ハイゼは…何をしている人なの?御頭って呼ばれてたけど何の?」
「キャラバンさ。この砂漠を越えて東西を結ぶ商売人。俺たちほど世界を広く知ってる奴はいないぜ。どうだ?おあつらえ向きだろ。」
ハイゼはにこっと笑った。そうすると少し少年っぽいところもあるんだ。
「うん。そうする。どこから帰っても行き着くところは一緒だし。」
これもこの世界での予備知識だった。帰りたいと思った場所からは、必ずあの旧校舎の司書部屋に帰っていた。今度も帰るときもきっとそう。途絶えてしまった必然の帰還。意味を見出せばきっと帰れるんだと思っていた。
だけど…だけど何故この時考えなかったの?
あたしとハイゼが出会った必然を…。