「うそ…」
香坂光姫は動揺の声を呟いた。いつの間にか戻れなくなってしまっていた、つい数十分前までいたところに。
ここはあたしの知っている世界…でもあたしの世界じゃない。どうすればいい?どうしたらいい?
揺らぐ気持ちを必死に抑えて、光姫はひたすら考えていた。
香坂光姫は東京都内の女子高生だ。東京といっても区内じゃない。ちょっと行けば違う県に入る、そういうところ。とても和やかな場所だ。普通に学校に通い、普通に授業を受け、お遊びみたいな部活にはそれでもほぼ毎日顔を出す、そんな生活。
光姫には秘密があった。誰にも教えていない秘密。教えても信じないだろうし、仮に教えたところできっとその人にはどうにも出来ないことだから。
その秘密とは、もう一つの世界。
光姫は時折こっそりとそちらとこちらを行き来していた。入り口は旧校舎の図書室の司書部屋に至るドア。最初にそれを見つけたのは本当に偶然だった。今となってはどんな偶然だったかなんて覚えていないし、今となってはあれは必然だったと思ってる。
本当に衝撃的だった。室内だと思って入ったその部屋は異様に広くて、天然の光が真上から差し込んでいたのだから。目の前にはどこまでも真っ直ぐな地平線、そよぐ風は東京のどこにも吹かないような自然の匂いがしてた。背後のドアはいつの間にかなくて、その代わり光姫の後ろには人々が生活をしていた。光姫がいきなり現れたことには気付かなかったくせに、光姫のこちらではごく普通の制服を見てひどく驚いていた。服がなによ、あなた達の方がよっぽど可笑しいわよ、そりゃあ…それはあたしみたいな制服を着た高校生が圧倒的に数の多い状況だったらね。その人たちの服は、現実的といえば現実的。砂漠に住む人たちがよくしているような格好に似ている。でも身に着けている装飾品だとか、着こなしだとかは何だかゲームや漫画の世界を思わせる。
一体何なんだろう、この世界は。そしてあたしがこの世界に来た意味は。全く分からなかった。分からなかったからこそ、何度もそちらの世界に足を踏み入れた。ちょっと長いショールを巻けば、不恰好ながらもその世界の空気に紛れ込むことが出来た。その度に入り口となる図書室のドアは視聴覚内から消えていたけれど、いつも自然に帰れていた。それが必然だったんだ。必然の来訪、そして必然の帰還。でもそれが今になって何故途切れてしまったの?
「大丈夫…落ち着いて。」
光姫はショールの胸元をぎゅっと握り締めた。何度も来ていたところだ。ある程度のことなら分かってるでしょ。でもあたしの「ある程度」ってこの世界のどのくらいなんだろう?半分くらい?それとも1割も満たしていないの?
思考が頭をグルグルしている。このままいつまでもこうしていては危険だ。だって今いるのは旧校舎の司書部屋じゃない。日中の太陽の照りつける砂漠だもの。こうしてるだけで息が上がる、体温が上がっていくのが分かる。座り込みたい…でもそしたら地面から照りつける熱がより一層近付くだけ。
「今は帰るときじゃ…ないのかな?」
光姫は搾り出すような声で呟いた。この世界と現実を往来して分かったこと、それはここが全てのことに意味がある世界だってこと。逆に言えば意味がなければ何も起こらない、そういう世界。だからこそ必然だって感じたんだ。あたしがいつも現実世界に帰れていたのも、それが必然だったから。
だけど…あぁ…あたしいつもどうやって帰っていたっけ…。「帰りたい…帰らなくちゃ」と思うと、その気持ちに反応するように目の前にあのドアが見えていた気がしてた。今は…どんなにそう思っても何も見えない、帰れない。これほどまでに帰りたいと思ったことは今まで一回だってなかったのに…。