知らず知らずに眠っていたのか、気がつくと地平線の彼方に何かがあるのが見えた。あれがバザールなのかな。よくは見えないけど、蜃気楼でないことは確かだ。
「あれがバザールなの?」
光姫はハイゼの肩を軽く叩いて尋ねた。
「あぁ。ここからだとあと2時間くらいで着くぞ。」
「に、2時間…?!」
光姫はゲッと顔をしかめた。目覚めて気付くお尻の痛み。あと2時間なんてもつだろうか。でもワガママも言ってられない。見渡す限り砂漠の砂ばかり。休む場所もなければ時間もない。ここは我慢してバザールに早く着くのが利口よね。
「疲れたか?」
「え?うーん…うん。」
言葉を濁しながら肯定した。
「向こうに着けば休めるぞ。今日はもうあそこに滞在する予定だからな。」
「そっか…嬉しい。」
光姫はそう言いながら額をハイゼの背中に当てた。
「そういえばバザールでは何をするの?何か売ったりとか?」
光姫はふと気付いて顔を上げ、ハイゼに尋ねた。
「あぁ、売るさ。でも一般人にじゃなくて店にだ。」
「あ、じゃあ卸売なのね、つまりは。」
「オロシ…?よくわかんねぇが多分お前が考えてる通りだよ。」
そっか、卸売りを示す言葉がキャラバンそのものなんだわ。変なこと口走っちゃった…どこの言葉だとか突っ込まれないといいけど…
「向こうに着いたらあんまりウロチョロしないでキャラバンの近くにいろよ。」
「うん…」
さっきのを聞き流してくれたのはありがたかったけど、御頭モードのハイゼは口数が少なくてちょっと怖い。アルフみたいにいつも色々と話してくれるといいのに。御頭なんだから、女の子の気持ちをもっと分かってよなんて、あたしは思考だけがいつも一人前。考えてるだけじゃ何も変わらないのにね。
それからバザールまでの約2時間、お尻は痛かったけど何とかやり過ごす事が出来た。何もない地平線を見据えて歩くより、たとえ遠くても目指しているものが見えている方がずっと楽。段々とバザールの形がハッキリしてくるのを数分おきに見ていれば、時間の観念も変わってくる。たとえ実体のない蜃気楼でも地平の彼方に時々現れるのは、疲れた旅人に活力を与えるためなのかな。だってここは全てに意味のある世界。蜃気楼にだって意味が求められる。
そうして着いたバザールは、今までこっちと向こうとを行き来してた時に見ていたところとよく似てる。日干し煉瓦か土壁かはよく分からないけど、黄色味がかった建物が多くて、布製のひさしを張ったお店が軒を連ねる。いつも思っていたけど、この風景ってアニメーション映画か何かで出てきたような。だからこそ自動的に先入観が働く。生活、治安、人当たり…。多分それは先入観と現実とでそれほど違わない。ハイゼの言っていた通り大人しくしていないと…。
「ミツキさん、あんたこっちにいた方がいい。」
ハイゼに続いてニロから降りた光姫に40代くらいの男が囁きかけた。彼はバーディン、屈強な体格に物静かな振る舞い、ここ数日見ている限りバーディンはキャラバンの裏番長…じゃなくて副長といったところ。
「間違えられては困るから、アルフと一緒にニロの世話をしているフリをしていなさい。」
「え?間違えられるって何にですか?」
けれど、バーディンは光姫の問いを聞く間を惜しんで荷車の方に行ってしまった。確かに皆忙しそう。キャラバンの周りには東からの商品を求めて人の群れが出来ているし、キャラバンはキャラバンで荷車やニロの背中から物資を下ろしたり、注文をとったりでごった返し始めた。こっちでは鮮やかな布を何枚も買い込む人がいれば、あっちでは東海域の干した貝を品定めする料理人がいる。食品、装飾品、布、骨董品、絶えず物が動いている。はっきり言って朝の魚河岸と同等か、それ以上。何よりどこの世界でもオバチャンは怖い。間違えられるとかじゃなくて、あたしまるっきり足手まといで邪魔者だ。せめてフリじゃなくて小さなことでも、アルフの手伝いをしていよう。光姫は少し肩身の狭い思いを抱えながら、後方でニロに水や餌を与えているアルフの元へ行こうとした。
「お嬢さん!いやぁ、これは上玉だ!」
「ぅえ?!」
いきなり横から知らないオジサンに腕を掴まれて、光姫は思わず声が裏返ってしまった。何この人?!お願いだから腕を掴むのは止めて。
「御頭さん、この娘は一体いくらだね?ダンサーかい?」
「いくらって…あたしそんなんじゃ…」
ちょっとむっとした。いくらって人を売り物みたいに!
「悪いな、オヤジ。そいつはそういうんじゃないんだ。手ぇ離してやってくれ。」
ハイゼは事も無げに断る。他の客の相手をしながら、その合間に返事をするようにちょっとだけ後ろを振り返って。そうじゃないでしょ、これって人買いよ。この世界ってそんなことがまかり通るわけ?
「そうか、残念だ。他にダンサー志望の娘は連れてないのかね?」
「あぁ、今回はいない。」
「ううむ、ますます残念。お嬢さん、ダンサーになる気があったら一番にワシのところに来てくれよ。」
人買いのオジサンは話し方だけ見ればとてもいい人。だからいくら売り物扱いされても光姫にはオジサンを無下にはできない。光姫は上目遣いに困ったような表情でオジサンを一瞥すると、そのまま小走りでアルフの側に走りよった。
「アルフ!ここって…」
「ど、どうかしたんですか?」
アルフは光姫の剣幕に少したじろいだ。しかし光姫はそこまで口を開いてやっぱり止めた。これじゃアルフに対する八つ当たりだ。そんなことしたくない。問い詰めるならハイゼに。光姫はオジサンに売り物扱いされたことよりも、ハイゼの軽い断り方に腹が立っていた。後になって思えば、会って間もない彼に一体何を求めていたのだろうか。でもとにかく光姫は寂しかった。買われそうになっても必死になって止めてくれなかったハイゼの態度が。それに悲しかった。自分を助けてくれた人たちが人身売買もするだなんて。