翌朝、光姫は自分の涙で目が覚めた。横を向いて寝ていたため、左目からこぼれた涙は鼻の隆起を伝って右目の涙と合流し流れ落ちた。大富豪の寝室にあるようなベッドはとても快適ではあったけれど…寂しかった。広すぎる部屋にはたった一人で、ついたてもその向こうの暖かさもどこにもなかった。夢の続きをあともう少しだけ見ていられたら良かったのに。
光姫は涙を拭って起き上がった。南に向いた光姫の部屋には少しずつ日が入り始めていた。もう午前の9時を過ぎた辺りだろうか。キャラバンなら寝坊の時間、けれどもここではどうなんだろう。妙に静かだ。ここは階下の盗賊たちの喧騒の届かない場所ではあるけれど、それにしても静か過ぎる。光姫は服を着替えて手櫛で髪をあらかた直すと部屋のドアに手を掛けた。思い切って開けてみる。辺りを見回しても誰もいないようだ。
冷たい石の廊下には部屋の向かい側に窓が設置されている。光姫は物音を立てないようにそっと部屋を出て窓から外を見下ろした。窓の外は砂漠とはまったく違う光景だった。孤城のある崖(ある意味では山脈にも思える)を隔てて北側には肥沃な土壌の町があった。それほど高い建物はないけれど、所々煙を吐く煙突が見え、背の低い木々もちらほら見える。人の往来までは見えないけど、元々は城下町だったんだろうな。バザールの栄え方とは少し違う。
「何か見えるのか?」
光姫はひどく驚いて顔を上げた。いつの間にかサイフェルトがそばに来ていた。
「あ、別に何が見えるとかじゃないの。ただ見たかっただけ…。」
光姫はそう言いながら目線を素早く逸らし、窓の方へ戻した。未だにサイフェルトとは目を合わせることができない。サイフェルトはそんな光姫に数歩近づいた。
「ミツキ!!」
いきなり大声で呼ばれてあたしは再び驚き、とっさにサイフェルトの顔を見た。
「やっと目が合ったな。」
サイフェルトは満足そうに笑った。あたしはそんな彼から目を離せなかった。
「俺にあいつの姿を重ねてるんだろう?」
「…あいつ?」
「ハイゼだよ。」
光姫はドキッとした。そうだ、確かにあたしはサイフェルトにハイゼの影を見てる。だから…思い出してしまうから、ちゃんと目を合わせることができなかったんだ。
「…サイフェルトはハイゼのこと知ってたの?」
サイフェルトの慣れた呼び方に光姫は思い切って尋ねてみた。ハイゼも何度か会ったことがあるような話し方をしていたっけ。
「ああ、よく知ってる。あいつとは長ぁい因縁があるからな。」
「因縁って何度かルベンズを襲ったことがあるってこと?」
「まぁそれもあるが、それ以前からのものがあるんだよ。お前、ハイゼから何も聞いてなかったのか?」
サイフェルトは壁に腕をついて光姫の方を見ている。
「何もって?」
「あいつは元々俺たちと同じ盗賊だったんだよ。」
「え?」
光姫は耳を疑った。サイフェルトの話し方は“それが当たり前”といった感じだったから。
「それってハイゼも昔は同じようにキャラバンを…襲ってたってこと?」
「そゆこと。」
「盗賊からキャラバンになるなんて許される…ていうか大丈夫なの?」
「まぁバザールとキャラバンの仲間が受け入れれば良いだけの話だし。滅多にはいないけどな。それに普通なら受け入れてなんてもらえない。だけどルベンズなら話は別だ。あれはメンバーのほとんどが元盗賊だから。」
「ええ?!」
光姫は更に驚いた。でも料理長は盗賊じゃないはず。アルフも…どうだか正確には分からないけど。
「もちろん全員がってわけじゃねぇぞ。最近入ったやつらは確か違ったはずだからな。でもバーディンは盗賊だった。これは間違いない。それからテオレルとかもそうだ。更に言うと前の頭…コートからして盗賊だったんだ。」
「うそ…全然知らなかった…。どうして盗賊をやめてキャラバンになったんだろう?」
「さぁな、俺も詳しくは知らん。」
そこで会話が一度途切れ、二人は並んで窓から外を見下ろしていた。とても静か。盗賊たちの声も風の音も砂がマントにあたる音も、何も聞こえない…何も。
「そういえばミツキってどういう意味の名前なんだ?」
「意味?」
唐突にサイフェルトが話を切り出した。
「そ。例えば俺なら…」
サイフェルトは目の前の窓に吐息をかけて、その部分に指で歪な文字を書いた。あの本と同じ文字だ。
「“サイフェルト”…サイは“崩す”、それでフェルト、“前へ”て意味に繋がる。つまり“困難を切り崩して前へ進め”って意味だ。」
サイフェルトは自分で書いた文字を二分して説明した。
「カルラならこう(また別の文字を書く)。“孤高の明るさを”って意味。あいつにはピッタリだ。ハイゼなら“決して背を向けるな”だな。」
「へぇ…一つ一つちゃんと意味があるのね。」
文字はまるで読めないけど、そういうところは漢字と同じなのかもしれない。
「でミツキは?」
「あたしは…」
光姫も窓ガラスを曇らせ文字を書く。漢字を二文字、“光姫”と。
「多分両親は“明るく気品があるように”ってつけたんだと思うわ。この文字の意味…直接の意味はね、“光の姫”。」
「ヒカリのヒメ…。綺麗な名前だな。お前によく合う名前だ。しっかしこの文字難しいな…。全然読めねぇや。どこの文字だ?」
「え、どこって…」
光姫は一瞬間を空ける。
「あたしの生まれ故郷の文字よ。」
「ふぅん…どの辺りなんだ?」
「ずっと遠く。」
「そっか…俺もいずれお前の故郷に行ってみたいな。」
サイフェルトはまたニカッと笑って見せた。だけど光姫は笑みは返しながらも言葉を返したりはしなかった。無理よ…あたしの故郷に来るなんて。当の本人すらも帰れるかどうかも分からないのに。サイフェルトがあたしにとても気を遣ってくれているのはよく分かるの。でも今はそれに応えてあげられない。今のあたしには必死という言葉がよく似合っていた。