ニロの上で光姫はケホケホと咳き込んだ。左右を囲む大きく黄色い岩を見上げて緩んだ口に、熱い空気が入り込んだからだ。
「風邪か?」
ハイゼが問う。
「ううん、ちょっと噎せただけ。岩見てたら変に息を吸い込んじゃって…」
「そうか、それならいいんだ。」
昼間には珍しくハイゼは温度のある声で返した。
「あと2,3バザールを越したらペース落とすからな。」
「うん。」
そしたら盗賊の危険性もなくなるのね。あたしはそう心で呟いてハイゼの背にもたれかかった。
「そういえばこの辺りって初めて見るわ。西海岸を折り返して別のルートに入ってるの?」
「あぁそうだ。この道を通ると西海岸に近いバザールを飛ばして砂漠に出られるんだ。西の荷物はならべく沢山東に運ばないといけないからな。」
「そうなの…」
あたしは返事をしながらふと岩山の頂上を見た。何が見た訳でも気になった訳でもなかったのだけれど…。
「どうかしました?」
テオが素早く横に回り込んで尋ねてきた。いつも思う、この人の警戒の仕方はアルフや料理長のものとは違う。
「別に何でもないの。ただすごい岩だと思って…。」
「そうですね(テオは微かにホッとしたような表情を見せた)。ですが昔のこの辺りは獣や限られた集団しか通らないもっと荒れた場所だったんです。岩も道を塞ぐようにゴロゴロしてましたしね。それを東に向かうキャラバンの通行路として整備したのが、何を隠そうコート・ルベンその人なんですよ。」
「そうだったの。道理で…」
道理でどこか人々が一目置いてる、そんな気がしてたんだ。
あたしはまた岩を見上げた。何故そんなに何回も見上げてしまうのか自分でも分からない。ただ気になるんだ、とても。そうならなければならないと意味付けられた何かが、あたしの体を動かすように。
「…何かしら?」
あたしは無意識に呟いた。おそらく光姫以外には誰にも聞こえていないくらいの小さな声で。確かに一瞬岩の上で動いたものがあった。影だったみたいだけど、雲の影を見間違えたのだろうか。光姫の様子にテオが同じ方向を見やる。だが何もいない、動かない。テオの目線に気付いて余計な気遣いはさせまいと光姫は目をハイゼの背に戻すけれど、それもほんの僅かな瞬間ですぐに岩を見上げた。やはり何も見えない。だけど気になる。胸騒ぎがする。静かな胸騒ぎ、嫌な予感に心が震えてるんじゃない。これから起こる事を逃すんじゃないというサイン。
「ハイゼ…」
しがみつくようにしながら名を呼んだ。
「ハイゼ、上を見て。」
「上?」
二人は同じ岩を見上げた。ハイゼは目を細めて凝視する。
「…何か見えたのか?」
「分からないの…。でも気になって仕方がないの。きっと何かあるわ。」
そう言い切れるだけの自信があった。根拠なんてかけらもないのに。
「…先に。」
ハイゼはニロを止め、気遣うテオやバーディンを先に行くよう促した。そしてもう一度光姫と同じように見上げた。西海岸に近い空には雲が流れ、日の光で濃い影を砂上や岩の表面に落としている。その雲の影がゆっくりと二人の上にかかり、十数秒かけて抜けていく。それでも尚も動かない影が見上げた岩の頂上に残っていた。さっきまでは何もなかった場所に。
「何あれ…?」
光姫は再び小さく呟いた。ハイゼはニロの手綱を強く持ち直す。影が動いた。同時に黒っぽいニロに跨がった人物が岩の上に姿を現わした。逆光でよく見えない…。けれど濃い青のマントを羽織った人物は、一人かと思いきやその背後に同色のマントでまとめた集団を抱えているようだ。
「ミツキ、つかまれ。」
ハイゼは素早くそう言うと、ピュウッと指笛を鳴らした。前を行くキャラバンはそれを合図に各々が振り返ったり見上げたりしたが、数秒後には全員が駆け出していた。
「しっかりつかまってろ!」
ハイゼはそう言うと手綱を強く引いてニロの顔を持ち上げ、足で横腹を蹴りニロを走らせ始めた。光姫は慌ててハイゼに手を回してしがみついた。鈍足そうに見えてニロは実は足が早い。馬のようにリズミカルではなく、不規則なドドドドッというくぐもった足音を立てている。小刻みに体が上下に揺れて気を抜いたら落ちてしまいそうだ。振動と風でハイゼの頭にかかるマントが下がり飴色の髪が揺れる。あたしは見上げた。巨岩の上をキャラバンと平行するように黒い集団も走っている。あれがアルフの言ってた盗賊なの?ハイゼと光姫の乗るニロは他のキャラバンのメンバーを追い越し、いつの間にか先頭に出ていた。もう少しで岩間の道を抜けて砂漠に入る…。けれど遅かった。
「よぉ。」
岩から飛び下りるように一人の男が躍り出た。やや色黒く、黒に近い茶色の短髪の男。背格好はハイゼに近いけど、それよりももっと荒々しい感じがする。ハイゼは手綱を引いてニロを急停止させた。ニロは落ち着かないように何度もその場で足踏みをした。今や盗賊の数は先に待ち伏せしていた部隊と岩を走ってきた部隊とが合流し、少しずつキャラバンが不利になりつつあった。