西海岸の町では、光姫は専ら料理長の買い出しや調理を手伝ったり、アルフと一緒にニロの世話をしたり、建物内を掃除したりしていた。今の光姫は何か役に立ちたい気持ちでいっぱいだった。ハイゼとは昼間に話す事は滅多になかった。ずっと御頭モードだったし、それに少し疲れているようにも見える。ここ1週間、ハイゼは交易商人との取引だけでなく、夜に他のキャラバンの御頭と話し合いに行ったり、荷物の搬入や天気に詳しいルベンズのメンバーと出発日を決めたりですれ違ってばかりいた。
だけどその日の夜は、ハイゼはどこか違う雰囲気だった。どうも静かなので仕切り板から顔を出すと、ハイゼはランプの灯る机に向かって何か読んでいた。
「何読んでるの?」
ハイゼが顔を上げる。柔らかい表情、光姫が一番安心するハイゼだ。
「アナトールにもらった本さ。読んでみるか?」
直接言葉にはしなかったけれども、“近くにおいで”と雰囲気で察する。光姫は歩み寄って本を覗いた。この前買ったマントが衣擦れの音を微かに立てる。
「綺麗な本ね。あ、でも全然読めないわ。これってこの世界の文字でしょ?」
本紙の一枚一枚に細かな縁取りが施され、その中には歪な文字が並ぶ。今まであまり見ることはなかったけど、改めてよく目にすれば英語ともドイツ語とも韓国語とも異なる。強いて言えばやはりアラブ語か何かの文字に似ているけど、どちらにしたって読めるわけがない。
「そうか…。でも挿絵もあるぞ、ほら。」
ハイゼは何ページかパラパラとめくって鮮やかなページを開いた。綺麗な色使いで光姫の目を引く。
「わぁ…すごい…。これって竜?」
鱗のある身を翻し、独特の顔を真正面に向けたそれは正しく…
「あぁ、ドラゴンだ。」
光姫ははっとした。何故だろう?いつも心に引っ掛かっていた。この世界のみでしか聞かない言葉の中に、時折元の世界と共通の言葉が紛れてる。キャラバン…バザール…そしてドラゴン。この言葉があたしに発している信号は何?ただ世界の繋がりを示しているだけとは思えない。
「どうかしたのか?」
「…ううん、何でもない。」
だけど気になる。言葉にならないのが歯痒い。
「この世界には竜がいるの?」
光姫は気持ちを切り換えるためにハイゼに尋ねた。
「さぁな。遠い北の地に人知れず住むとは伝えられてるが、見たという話は聞かない。わざわざ調べに行く物好きもいないしな。」
「そうなの…」
気になるといえば竜も同じ。どうしてかこの本の挿絵がとても気になる。ただ勇壮に獰猛に描かれたわけではない竜の表情。心が締め付けられる、言い様のない胸騒ぎと悲壮感がわき上がって来る。何故悲しむの?何がそんなに苦しいの?誰かを探していながら、けれども決して会えないような、絵の竜の表情には何ともいえない物悲しさがある。まるで実際にこの場面を目にして描いたように。
「ミツキ…ミツキ。」
「あ、何?」
竜に見入っていてハイゼに2回呼ばれるまであたしは本から目が離せなかった。ハイゼは机の端から何かを手に取ると、あたしの茶色いマントを中央に引き寄せてその部分に付けた。あたしのすぐ顔の下からハイゼの手が離れると、マントは真鍮の三日月のブローチで留められていた。細かく彩られた三日月は、その弓の内側に琥珀色の石を抱いている。
「やっぱりその色に似合うな。」
ハイゼは机と平行に向いて、寄り掛かるように右肘を乗せてそう言った。
「これ…あたしに?」
「あぁ、この前お前が返してくれた分で買ったんだ。最近忙しくてなかなか渡せなかったけどな。」
あたしはブローチを上に向けてよく見た。石はランプの淡い光を内部に集めてキラキラと輝いた。それはあたしが密かにずっと欲しいと思っていたアクセサリーそのものだった。
「あ、ありがとうハイゼ。」
また顔が熱くなる。もっと嬉しい気持ちを表情や言葉に表したいのに、どちらも気持ちに反して凍り付いてしまっている。
「あたし…」
だめ…言葉が繋がらない。
「いいよ。」
ハイゼは座った状態のまま光姫に手を伸ばした。いつものように光姫の髪に触れ、そして最後に両手でそれぞれ光姫の手首を持つと、自分の方に引き寄せた。そして前屈みになった光姫にハイゼは小さなキスをした。唇が少し触れ合っただけの本当にささやかなキス。だけど光姫は全身が心地よくしびれるような衝撃を感じていた。
「正直に言うよ。」
唇を離してハイゼが呟いた。同じ体勢のまま、ハイゼの顔が近い。
「俺はまだお前の世話をやく自分の気持ちが分からない。でも…」
ハイゼはあたしから目を逸らさない。あたしはハイゼから目を逸らせない。
「でもお前の事は大事だよ。必ずお前を元の世界に帰してやるから。」
じわっと涙が滲む。さっきまでの心を満たしていた冷たい悲壮感が暖かく消えていく。安堵とも満足感とも違う、胸をいっぱいにする嬉しい気持ち。とても言葉になんてできない。どんな言葉を充てたらいいのかも分からない。ハイゼはそれを察してくれたの?ただ何も言わず優しくほほ笑む。どんな時でもあなたがいてくれるなら、あたしは何にでも耐えられると、この時ばかりはそう思わずにはいられなかった。