短編小説「サイドローグ」
その日は5月の中間テストの最終日だった。これまでの数日間、同じ道で見上げた昼間の太陽のどれよりも、今日の太陽は格別だった。
「んんーっ…」
近江若葉は歩道の真ん中で大きく伸びをした。少しくせっ毛交じりの黒髪で、肩ぐらいまである長めの髪は、5月の爽やかな風に吹かれて少しだけくしゃくしゃになっていた。
「ふうっ」
短いため息の後、若葉は口を少し開きかけてやめた。もし通りに一人だけでいたなら、若葉はなにかしらの独り言かあるいは歌の一つでも口ずさんだかもしれない。若葉の来ているセーラー服は変わっていた。襟とスカートは紺色、スカーフと学校指定の靴下はくすんだ水色で、このあたりの人が見ればすぐに有名進学校のそれだと分かる。それだけに若葉の受けていた中間テストはこの周辺のどの学校のものよりも難しかったし、高校3年生になってすぐのテストの結果が大学受験に大きく影響するとなれば、それが終わって感じる解放感は誰のものとも比較できない。
若葉が目指すのは医者だった。両親は普通の会社員で医者ではなかったけれど、医者になるのは若葉の小さい頃からの夢だったし、家計が僅かだって苦しかった事はない。親戚には大病院専属の医師がいた上に、なにより若葉の努力家な性格が実現可能な夢にしていた。それでも若葉が人生が順風満帆だなどと、おこがましくも考えた事はなかった。叔父のように大きな病院に勤めるのもいいけれど、どこか辺境の土地の小さな診療所で沢山の身近な人を助けるのも憧れる。若葉の夢はどこまでも純粋だった。
目の前の横断歩道の信号が、直前で赤に変わった。若葉は右側にあるコンビニのガラスに映る自分の姿を横目でチラリと見た。さっきよりも一段と髪は落ち着きがなかった。若葉は急いで手櫛で髪を直し始めた。何度も不自然でない程度に横目でガラスを鏡代わりに直していたが、4度目にチラリとした時に、ふいに自分の左側に男が一人立っていることに気付いた。もちろん歩行者信号が赤なのだから、その男も自分の横で信号が変わるのを待っているだけだろう、と最初は思った。だが男はそうじゃなかった。
「若葉…さん?」
「はい?」
普段なら知らない人に話しかけられることはあっても無視していたのだが、不意に名前を呼ばれたものだからつい返事をしてしまった。振り返ってみると、男は同い年くらいで茶色味がかった短髪の端正な顔つきをした少年だった。見るからにまだ青年ではない。かといって一般的な少年の子供っぽさはなく、実際は少年と青年の間というのが一番近い言い方だった。
「あの…何か?」
返事をしてしまったのだから、今更無視するわけにもいかず、名前を呼んだだけで黙ってしまっている少年にしびれを切らして仕方なく若葉は尋ねた。耳元では今まで聞いたことがないようなパシッパシッという音がしていたが、都会の交通量の多い街中で聞いた事のない音を不審に思うことは稀だった。しかし目の前の男はその音を過敏になって聞いているらしく、若葉にはその男が何かのタイミングを計っているように思えた。男は突然に若葉の方へ一歩踏み出した。さっきまで男の頭があった場所に、一瞬だけ攻撃的な黄色い閃光が見えた気がしたが、すぐにそんな余裕はなくなった。男が若葉の左手首を掴んだのだ。
「こっちへ!」
男は若葉を連れて走り出した。こんな時にこそ防犯ブザーがあるのだろうが、普段出番のないそれは鞄の奥底にしまったままだった。だが、もし防犯ブザーをポケットにしまっていたとしても、今使うことは到底出来なかっただろう。手首を掴まれていきなり走り出した上に、男の足があまりにも速いものだから、若葉は体勢を整えることが出来ず仰け反ってしまっていて、今にも転びそうだった。
「ちょ、ちょっと待って…きゃっ」
若葉の体は宙に浮いた。つまずいて体の真正面から地面にぶつかると思った。しかし、若葉の手を引く男は素早く一歩後ろに引いて、若葉が転ぶ前に小脇に抱えてひたすら走った。さっきよりもずっと速くなった男の足は、もはや人間のものとは考えづらかった。