老人・テテはカイをイスのある方へ促して座らせると、自分も腰掛けた。改めてテテを見てみると、立像と同じような長いローブを着ており、白髪に白髭、少しくすんだような肌色の顔に深い藍色の目、顔立ちはツァラトラの民とさほど変わらない。
「教典はどこまで読みましたか?」
「エスルベが汚れた泉に身を投じたところまでです。」
「では続きを申しましょう。エスルベが身を投じても、すぐには泉に変化はありませんでした。しかし、3日ほど経って地が揺れたかと思うと、汚れた泉は跡形もなく消えていたのです。人々は驚きました。そして少しでもエスルベを疑ったことを恥ずかしく思い、彼の言葉を改めて理解して、エスルベの言葉通りに生きようと誓いました。」
「そして宗教となったのですね?」
「その通りです。」
カイの言葉にテテは嬉しそうにほほ笑んだ。
「我々は古代オルト語で‘全うする者’の意味を持つオルタスという名をつけました。人種名であるオルトとは‘全うする’を意味します。エスルベにもロという言葉が当てられました。これには‘清く偉大な’という意味が込められているのですよ。」
テテは細かくカイに話して聞かせてくれた。カイは少しの間何かを考えるような表情をしていたが、2、3度瞬きをすると思い切ったように切り出した。
「オルタスは長い間聖地が分からなかったと聞きましたが、それはなぜですか?」
「ロ・エスルベの教えを皆が忠実に守ったからです。聖堂を離れ、その生を自分のみの為でなく全うしようと流浪したので、いつしか戻れなくなってしまったのです。もちろん全ての者が流浪したのではありません。尚も聖堂にとどまる者もおりましたが、そういった者は自らをオルタスとは称しませんからね。同じことです。」
カイは気付かれないように小さく深呼吸をして心を落ち着かせると、もう一つ質問をした。
「ツァラトラという宗教のことはご存じですか?」
テテは少し目を見開き、しかしすぐに元に戻すとうつむき加減に話し始めた。
「もちろん存じております。我らがこの地を離れている間に、新しく聖地と仰いだ民たちですな。随分好戦的な人ばかりで、我々も戦いの中で多くの犠牲が出てしまいました。今尚この地を取り返そうとしています。もはや彼らのいうところの神の血はもうないというのに…。」
「え?」
カイは驚いて聞き返した。
「どういうことですか?!」
「あぁ、我らオルタスのいうところの汚れた泉というのが、実は彼らにとっての…」
「いえ、そうではなくて…、油田は枯れたのですか?!」
カイはツェルテに燃える血と火を吹く息吹のことを聞いた時から、その正体を石油ではないかと思っていた。ツェルテやテテがそう認識しているかどうかは定かではなかったが、つい「油田」と口に出たのだった。
「ユデンと申すのですか?汚れた泉は。あれは枯れたのではありません。回収されました。」
「誰に…ですか?」
「国際政府に。」
カイの心臓はドクンと鳴った。
「まさか。ツァラトラがそんなこと許すはずないでしょう?!」
ただ信仰ゆえに戦ってきた彼らが。
「いえ。」
テテはきょとんとしたような顔をしていた。
「国際政府がツァラトラの民は泉をいらないと、そしと我々にとってもいらぬものなら、国際政府が管理しようと申し出てくれたのです。あれはオルタスにとって忌避すべきものですからね。」
テテはその後の歴史や古代オルト語の解読法などについて、尚も話すつもりでいたようだったがカイはそれを断ると図書館を出た。カイの考えが正しければ、この世界を変える扉は開かれたのだから。あとはダルに確認するだけ。
ダルは図書館の入口から少し奥まったところの広場にいた。茶色い素材の花壇跡は、ツァラトラの民が使っていたものだろう。ダルはそこに腰掛けていた。
「カイ殿!」
ダルは勢いよく立ち上がった。
「ダル…」
何か物憂げな表情でやってくるカイをダルは不審に思った。
「いかがしました?」
「ダル…ソロラスを離れてから、国際政府の打診はあったか?」
ダルはカイの突然の質問に戸惑いを見せた。
「あ、その…打診ですか?えっと確か離れてすぐだったと聞いてますが、オルタスはアグナ神の血だけなら譲るといっているがどうするか、とあったそうです。」
「それで…断った?」
「まさか!もちろん土地を取り返すのが最大の目的ですが、無いよりはあった方がいいでしょう?ですが、数週間後に再び国際政府の役人が来て、一樽のアグナ神の血とともに、何とか抽出しようとしたが地盤沈下の可能性が高いため、これ以上は無理だと…。ならばソロラスの地を取り返すまでと、それ以来俺たちツァラトラは戦いを決意しているのす。」
ダルは語尾を強めた。
「もう…ないよ。」
「?何がですか?」
「もうないんだ、アグナ神の血は…。」
「何を仰います、地表に現れていないだけですよ。アグナ神の血は深く地中にあります。」
「そうじゃないんだ。今はもう地中にもないんだそうだ。」
「え?」
ダルの顔が凍りついた。
「オルタスがソロラスを聖地とした頃に…回収されたらしい。」
「まさか…だってそれなら…」
ダルの目は一瞬空を泳いだ。
「…何のために戦ってたんだ…。父も祖父も…腕も足も、幸せな何もかもをなくしたのに…。」
見上げたダルの目は揺らめいている。ダルの口からは‘誰が?’とも‘何故?’ともなかった。戦いの果てに得られると、信じて疑わなかったものがないなんて。ただこれまでの戦いの意味をひたすら自分に問いていた。
「…国際政府の本拠地はどこに?」
カイはややあってダルに尋ねた。
「コルークの…リシャオースという街です。」
カイと目線を合わせるのに、ダルは手のひらで荒っぽく目を拭った。
「ここから北に行けば着きます。それほど時間はかかりません。俺も…行きます。」
「あぁ…。」
カイは眼球を動かさないようにして自分を見つめるダルの肩を軽く叩いた。瞬きをしたダルの目から、大きな涙が一粒だけこぼれた。
次のページへ⇒3章ー9