普通図書館というのは静かなのが常だが、オルタスの図書館は他のどこにもまして静まり返っていた。カイの他に閲覧者はおらず、わずかに数人司書と思われる人物がカウンター越しに座っているか、奥の部屋とこちらとを行き来しているだけである。カイが彼らに話かけなかったように、彼らもまたカイを一瞬見ただけで何も言わなかった。

 図書館内は本また本の山だった。そびえる棚に整然と本が並べられ、そのどれもが埃っぽく黴臭いような古い物ばかりだった。巡礼のためだけのこの街で、新刊を入荷するに必要ないからだろう。あらゆる分野の古い本は、それだけでカイの興味を引いた。中でも『闇の徴と神の思惑』というタイトルの本にカイは最も魅かれた。その背表紙に描かれていたのは、根と葉の逆さまになった樹で、まさしくクリフォスだったのだが、図書館の前で待つダルを思って、カイは無理に見なかったフリをした。

そうして棚の間を歩いて、哲学・地理・科学・天文学と進んで行き、ようやくカイの期待に応えるような宗教・史学の棚に辿りついた。さすがに聖地の図書館なだけあって、その棚の蔵書数は異常ともいえるほどだった。カイはその中でも迷わず最古と思われるボロボロの本を開いたが、見慣れない文字が並ぶばかりで何一つ分からなかった。(どうやら古代のオルト語らしい。)その本を戻し、同じくらいの大きさで少しだけ新しく見える別の本を手に取った。本紙は黄ばみ、文字のインクも薄くはなっていたが、カイにも読める文字で書かれていた。カイはその場に立ったまま、決して薄くはない本の1ページ目から読み始めた。その本にはオルタスの歴史が細かく記してあった。

 

 

 オルト歴・紀元後63年、遠く北と南の交差した地に、聖なる光に導かれてエスルベが誕生する。生まれながらに神の祝福を受けたとこは明白だったが、すぐにそれと分かる手段はなく…(一部古代オルト文字で書かれているため、ここから数行はカイには読めない。)…として数々の遍歴の後、エスルベが13歳になり初めて訪れた聖堂で彼は洗礼を受け、また同時に神の祝福をその身に現す。幼くもまた神々しいエスルベに、聖堂の神官は駐留を懇願するも、過去の遍歴にて神の光を見たエスルベは、再び流浪の旅へ出る。…・・

 

 

 カイはその先数ページをパラパラと飛ばした。エスルベが何年にどこを訪れ、誰に出会ったのかということが事細かく書かれており、あまり重要ではないと思ったからだ。もしソロラスに一人で来ていたら、全て読んでいたのは言うまでもないが。

 カイが再び目を止めたのは、エスルベが遍歴からどこかの地に帰ってきたという部分だった。

 

 

 …エスルベは自分がいかに恵まれてきたのか、それを思うとひどく恥ずかしかった。家を持たず、何人かのお付とともに遍歴していたのが何だというのか。ずっと見てきた、自分では助けてきたつもりだった人々を見よ。ただ一心に誰かのためにと命を削って生きていた彼らに、本当の言葉をかけられていただろうか。ほんの小さな願いすら叶えられず働かされる彼らに、何が出来ただろうか。彼らに会い、心を痛めただけで満足していた。自分は彼らの力になってあげられたのだと。実際は何をも出来なかったというのに。

 一方、聖堂周辺の街はどうだろうか。最低限のことしかしないくせに、些細なことで悩んでは、便利な言葉で取り繕って自分は不幸だと嘆いている。その中の誰一人として、彼らほど不幸なものなどいはしないのに。人々を救う為にはどうしたら良いのだろうか?いや、救うというのはもはや間違いだ。この世は歪んでいる、正すべきなのだと、エスルベは強く決意した。そして最も正すべき聖堂へと向かった。聖堂は以前エスルベが感じた神々しさを既に忘れていた。税金だと銘打って私腹を肥やしては、憑りつかれたように豪華な建物ばかりを建設し、人々も救われたい一心で進んで寄付している。人々は奴隷を使っているだけで働かず、そのくせ不平を絶やさない。神も私が世を正すことをお止めにはならないでしょう。…・・

 

 

本はこのあと数ページ破られている。文の前後関係から、おそらくはエスルベが聖堂に何か訴えた箇所だと思われる。古い本だ。後世に抹消されたのだろう。その部分には新しい紙が一枚継ぎ足されており、一文だけ

 

エスルベは理不尽にも異端とされた。

 

と書かれてあった。

 

 

エスルベは汚れた泉の縁に立ち、声高に民衆に告げた。もし、私がこの泉に身を投じたことで汚れが取り払われたなら、あなた方も自らの心の汚れを取り払いなさい。そして貧しくも清く正しい者たちのために、その生を全うしなさい、と。エスルベは両手を広げ、背後へとゆっくり倒れ、汚れた泉の底で果てた。エスルベが身を投じたとて、泉は今までと何ら変わらなかった。人々は口々にエスルベを否定し、何が神の祝福だと悪態をついた。だがエスルベが泉に沈んでから3日後、…

 

 

「我らがオルタスへの帰依希望者ですかな?」

カイは突然横から話しかけられ、体をびくっとさせて振り返った。そこには一人の老人、纏う雰囲気はツェルテのそれと似ていた。

「いえ、そういう訳では…。ただオルタスのことを知りたくて。」

「そのためにオルタスの原理教典をお読みとは随分熱心ですな。古代オルト語を読めるのですか?」

「いや。」

老人は別のやや新しい本を手に取った。

「それならこっちの方が読みやすいですよ。それは古代オルト語を訳した最初の本。読めない箇所がおありでしょう。」

「そうですね。ですが…」

カイは持っていた本を閉じると棚に戻し、老人の方へちゃんと向き直った。

「良ければあなたが続きを聞かせてくださいませんか?友人を待たせているので、あまり長くはいられないのです。あなたはおそらく聖職者でしょう?」

「いかにも私はオルタスの神遣です。名をテテと申します。よろしいですとも。あなたに話して聞かせましょう。」

 

 

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