カイは考える時によくなるような虚ろ気味な目に光を再び戻した。その様子を見て、声を掛けられないでいた老賢者が遠慮がちに言った。

「他にお聞きになりたいことはありますかな?」

「え?ああ…そうだな…。あなたたちの名前を伺いたい。」

「名前…ですか?」

老賢者も側に控える男たちも、目を丸くして驚いていた。

「…?伺ってはいけませんでしたか?」

カイは名前を聞くのは当たり前だと思ってのことだったが、簡易住居内の人々の反応に逆にカイの方も驚いた。

「いえ、ただ名前をお聞きになると思っておりませんでしたので…」

老賢者はうろたえながらも嬉しそうだった。

「そうですか。良かった。」

カイは自然と微笑んで言葉を続けた。

「私はカイと申します。あなた方は…といっても全ては覚えられないと思いますが…。」

「ええ、そうでしょうとも。とりあえずツァラトラの神官をご紹介します。まず、わしがツァラトラ主神官のツェルテです。そして護衛の神官ダルに、灯火の神官ベルタです。」

老賢者ツェルテは隻腕の男、足を引きずっていた男を順に紹介した。カイはその二人の男に戦争の影を見た。

 

 

 カイはその日一日中、簡易住居から外に出られなかった。カイがこの世界で目覚めたのは朝の随分早い時間だったのだが、それからずっと自由に動けなかったのは、人々がカイを敬って入れ替わり立ち代り挨拶に来ていたためである。このテント群に住む大多数には、まだカイのことがきちんと伝わっていないらしい。出される食事も盛り付けられた食器も、人々が使うのとは違っていた。

 そんな訳でカイがほとほと疲れてきた頃(その頃には日は沈み夜になっていたが)、やっと人々の挨拶が終わり、この世界で初めての休息が訪れようとしていた。カイは久しぶりに眠かった。ふと気が付くと、テントにはカイとベルタの二人だけになっていた。ベルタはずっとカイの側に控えており、カイの様子を気遣うようにしていたが、あえて話してくることはなかった。カイは意識的に目を少し覚ますと、ベルタに尋ねた。

「この…この辺りの国や情勢を聞いても?」

突然の問いにベルタは驚いた表情をしながらも、その内はとても嬉しそうだった。

「ええ、もちろんです。カイ殿」

ベルタは座りなおした。

「ここから数キロ北にいくとコルークという国に出ます。これは最南端の国で、そこから北に次々と大小27の国が連なっています。国々はとても豊に発展していると聞きます。この一帯が砂漠ですから、信じがたいかもしれませんが。」

そう言うと年若い神官は冗談交じりに笑いかけた。カイの後ろから指す光が、ツァラトラ独特の白みがかった髪に揺れていた。

「ソロラスは宗教都市の上に砂漠の中にありますから、どこの国にも属していません。ソロラスが28番目の国だったといってもいいでしょう。それだけソロラスは独特の発展をしてきましたし、他のどの国とも違っていました。」

ベルタはそこまで話すと立ち上がり、部屋の片隅から綺麗に折りたたまれた紙を出してきた。それは地図だった。地図の最も左側(この地図では南が左になっている)にソロラスがあり、数センチあけて大きな国が記されている。そしてその国の右側に同じくらい大きな国が、間に2,3の中くらいの国を挟んで隣接しており、あとは小さな国や中くらいの国が寄り集まって構成されていた。

「さて、話は国々の方に移りますが、ご覧になって分かるように近辺には大国が2つあります。ソロラスに近いこちらがコルーク、そしてやや離れたこちらがロウエンです。」

広げた地図を指差しながら、ベルタは説明している。

「両国とも3〜4つの同盟国を有しています。今はもう少し増えたかもしれません。ともかくこの2つの国は当時社会体制が違うために、互いに相手の体制を非難し、自分たちに同化させようとしました。これが約80年ほど昔の話です。最初は話し合いでしたが、段々と険悪になっていき、やがて戦争になりました。この辺りの国々を巻き込んだとても大きな戦争でした。複数回の戦争が15年ほど続き、今から60数年前にロウエンの指導者がなくなったことで終結しました。それ以前から国際政府らしきものはありましたが、この一件で新たに確立され、今に至ります。しかし…」

ベルタは言葉を止め、息を吐いた。

「しかしここからが私たちツァラトラにとって悪夢でした。国際政府確立の数年後にソロラスを離れなければならなくなり、そして既にお話したようにオルタスとの戦争が続いているのです。」

「そうか…。」

カイはやや重くなってきた瞼に、無意識に目をこすった。その様子を見て、ベルタはフッと微笑みカイの顔を覗き込むようにして言った。

「お休みになるのでしたら、火を鎮めましょうか?」

ベルタは上座の火の灯る置物を指した。

「え?ああ…すまない。」

カイは無意識にとった自分の眠そうな態度に気付き、恥ずかしそうに微笑み返した。

「でもこのままでいいです。少し明るいほうが安心するから。」

意識がないとはいえ、世界と世界を繋ぐ空間が暗闇のせいか、カイは真っ暗闇が好きではなかった。今までだってリトリアの地下独房を除けば、星と月の明かりが夜中カイを安心させてくれていた。簡易住居の天井の穴からも、それなりに淡い光は差し込んでくるものの、自分の傍らでとうとうと灯る炎の明かりがカイには恋しかったのだ。

 ベルタは火の灯ったままの置物を上座から下ろし、カイの眠るスペースを作った。そして住居の調度品の中から毛布を取り出すと、それをカイに渡し、住居内を照らすランタンの明りを消して静かに自分のテントに帰っていった。カイは手渡された毛布を体にかけて横にはなったが、すぐには眠らず、うつぶせになって重ねた手の甲に顎を乗せ、置物の火をじっと見ていた。盆をくわえる竜の口からは何かの液体が少しずつ染み出ており、それがために火がいつまでも消えないらしい。だが、カイはそういうところは見ていなかった。ただその黒い瞳の中心に火の光を映しながら、何を考えるでもなくぼんやりとしていた。そしておもむろに仰向けになると、右腕をかざし話しかけるように呟いた。

「…君が私を導いてくれたのか?」

今はもうすっかり赤い光を消した右腕は何も答えず、置物からの光にそのあざを浮かばせていた。カイはしばらく右腕を見つめていたが、やがて目の上に置いて、そのまま静かに眠り始めた。

 

 

 

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