「ラルフ、日が暮れてきたわ。」

確かにウィニーの言うとおり、窓から見える他の建物の煉瓦は、西日を浴びてくすんだ朱色が鮮やかに見えた。

「そうだな。そろそろ帰らないとな。みんなも心配するし。」

それからラルフはカイの方へ向き直った。

「あなたはここにいてください。俺たちの本当の家に連れてはいけません。一緒に住んでる家族のこともあるし。この隠れ家だったら、余程のことがない限り見つからないと思います。ただ大きな音は絶対に出さないでください。窓にも極力近づかないで。何もなければ明日また来ますから。」

「わかった。色々とすまない。」

カイは世界を巡ることよりも、こんな風に誰かの手を焼かせなければならないことがたまらなく嫌だった。子供たちにこのような思いをさせてしまったと思い始めたこの頃から、自分がどの世界でも万能であったなら、とカイは最後まで叶うことのない願いを持ち続けることになった。

「ケイル、行くわよ。」

「…うん。」

ケイルはしぶしぶカイの傍を離れた。そして部屋の出入り口で待っているウィニーとラルフの方へ歩きながら、顔だけはカイの方に向けて手を振っていた(ケイルがなかなか手を振るのを止めなかったため、カイもずっと手を振らなければならなかった)。年長の二人はといえば、ラルフはケイルを見ていたが、ウィニーはカイのことを見ていた。何か考え込むような目で暫く見ていたが、カイが自分の目線に気がついていると分かると、フッと目線を逸らした。

 子供たちが音もなく去って行った後も、カイはそのまま座っていた。ぼんやりと部屋の中央から窓の外を見つめていたが、おもむろにマントをめくって自分の右腕を見た。右腕に巻きつくような赤いあざ。ちょうど 肩口に位置する物質(キムラ)(ヌート)の球体だけがやけにくっきりしていた。他の球体はまだおぼろげな感じで、キムラヌートのような文字すら浮かんでおらず、ただいつもと変わらず1i2iという虚数だけが辛うじて見えた。カイは左手で肩口のキムラヌートにそっと触れた。ラナ、そっちの世界はどうだ、森と共和国と王国、上手く和解できたのか…自分の目的を達成せんとのプレッシャーからか、もう戻れぬ世界に思いを馳せてみる。この世界はこの前の森よりもずっと早く朱色の夕焼けが漆黒の夕闇へと変わっていった。

 

 

 次の日の朝は、あっという間にやってきた気がした。カイは器用にも部屋の中央の椅子に腰掛けたままの体勢で眠っていた。自分が一体どれだけ眠っていたのかはわからなかったが、カイの場合食事や睡眠をほとんど摂らなくても平気なことがよくあった。カイに不思議な力がいくつか備わっているのだとしたら、これもその中のひとつなのかもしれない。

 カイは窓の外に目をやった。まだ朝の早い時間なのだろうか。耳が痛くなるほど外は物音ひとつしない。日は差していたが少し肌寒く、カイはマントをきつく巻き直した。本当は南に向いた部屋の窓から外を見下ろしてみたかったがやめておいた。廃墟となった建物群のどこに誰がいるのかわからないのだから。その代わりにカイは一晩中と思われる時間座っていた椅子から立ち上がって、部屋の中をゆっくりと歩いては、この建物が住居であった痕跡に触れていった。剥がしきれなかった壁紙の残り、ボタンホールに大きな穴が開いてしまっている古いボタン、割れた鏡の破片、どれもこれも人がいた温もりをすっかり忘れてしまったかのように冷たかった。

 部屋に太陽の光が少しずつ差し込んでくる頃になって、昨日の子供たちがカイのもとへやってきた。最初に部屋に入ってきたケイルは、ニコニコしながらパンを抱えていた。

「おはよう、お兄ちゃん。ボクね、パン持ってきたんだ!」

カイは一晩の間にお兄ちゃんになっていた。ケイルは日持ちするように作られた黒っぽいパンをカイに差し出した。ケイルのお腹がぐぅと鳴った。カイはふっと微笑んで、ケイルの目線にあわせるように膝をついた。

「ありがとう、ケイル。でもそのパンは君が食べていいよ。私はそれほどお腹は空いていないから。」

「でも・・・でもボク・・・」

ケイルは自分が食べたい気持ちと、カイに食べてもらいたい気持ちの板ばさみになっているようだ。

「じゃあ、そのパンの半分だけもらうよ。そしたらもう半分はケイルが食べていい。」

そう言ってカイは、ケイルの持っているパンを半分(ほぼ三分の一に近かったが)にして大きいほうをケイルに渡した。ケイルは目を輝かせてパンにかぶりついた。その様子を見て、カイもパンを口に運ぶと、立ち上がってラルフとウィニーを見た。ウィニーは昨日と同じような何か考え込むような目で、やはりカイのことを見ていた。ケイルが<eンゴクの話をしてから、ウィニーの纏っていた冷たいツンツンとした雰囲気は消えていた。

「あの、カイさん(敬称はいらないよとカイは言った)。ちょっと出かけませんか?ぜひ連れて行きたい場所があるんです。」

ラルフも昨日の冷静な彼ではなかった。これもやはりケイルの<eンゴクの話があってから。3人、特にラルフとウィニーはそのことを話したがらずにいたが、カイにはなんとなく見当がついていた。きっと誰かが死んでその人が自分に似ているに違いない、その人は子供たちにとって大切な人だったに違いない、と。

 

 

 

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