「なんだ貴様は?!」
総督はひどく落ち着かない様子で部屋をうろつきながら、今部屋に入ってきた男をほとんど見ずに尋ねた。だが尋ねながらも何かブツブツと独り言を言っているようで、カイに聞き取れたのは「騙されんぞ」だとか「黒目…不吉なカラスが」だとか総督の別の人格が勝手に喋っているようだった。
「あなたがピガル総督か?」
「だったらなんだ?(なぜわしの名前を知っている、余所者の犬め)」
ピガル総督は絶えず何か言っており、どこか既にまともでないように思われた。その風貌も総督というにはかなりみすぼらしく、髪は白髪交じりのボサボサで、髭が生えていないために頬がこけているのがハッキリと見て取れていかにもやつれており、顔色も土気色に近かった。
「あなたに頼みたいことがある。」
「頼みたい事だと?(知っているぞ。どうせろくでもないことだ)」
総督はなおも部屋をうろつき、まっすぐにカイを見ない。ただ何度も横目でチラチラと伺っている。
「今すぐ攻撃中止命令を出して欲しい。」
「中止?攻撃を中止だと?!」
総督は初めてカイをしかと見た。その目は大きく見開かれ、わずかに血走り狂気の沙汰をのぞかせていた。
「やはりな!どこの国のスバイだ?え?攻撃を中止しろだと?交渉でもしに来たつもりか?!戦争は絶対だ!止めろなどとぬかしおって!貴様も我が国を脅かす悪魔だ!」
総督は右手に銃を取り、だがその手は怒りと狂気に震え、今にも銃を取り落とすか、その反動で発砲しかねなかった。
「リトリアとカスタが領土的問題で争っているのは聞いている。だがエウターナとグァナに何の落ち度があった?彼らはあなたの国を滅ぼそうなどと微塵も考えていない。迫害は無意味だ。戦争を止め、カスタと和平を結びなさい。そしてエウターナ・グァナ両国との国交回復に努めるんだ。あなたはもう随分神経をやられている。総督として人の上に立つのは無理なんだよ。」
カイは銃口を目の前に向けられながらも、冷静にそして優しい口調で総督を説き伏せようと努めた。もし相手が少しでもまともであったなら、カイの言葉に動かされたかもしれない。だが、総督にとってはもはや遅すぎた。
「だまれ!知ったような口をきくな、邪な犬め!これ以上鉱山を餌に脅されてたまるか!経済を振りかざし、わが国民を貧困せしめおって!滅ぼすつもりがないだと?笑わせるな!今あの悪魔どもを黙らせなければ、やつらは勢いづいてリトリアをその配下にし、わが国民を奴隷にするに違いなのだ!」
カイはぐっと耐えていた。しかし自分でもそうと知らない内に、クリフォスの右腕は静かにその力を顕わにしていた。カイはその危険な光になおも気が付かず、ただ落ち着いた口調で総督の可能性にかけていた。
「鉱山はきっとあなたがたを救うよ。雇用体制をしっかりと確立させれば正当な働き口が増える。鉱山での雇用が国を豊かにするんだよ。そのためにも戦争を起こしてはいけない。」
総督は説得する男の澄んだ黒い瞳に一瞬たじろいたが、それでも頑として譲らなかった。
「おのれ…悪魔の手先め!戦争せずしてわが国民を救えるものか!貴様の無駄口はもうたくさんだ!死ね!」
引き金が引かれ始めた。カイは右腕を上げ、それを阻止しようとした。そしてこの時になって、対峙している二人の男は赤い光に同時に気が付いた。総督はその光を恐れ、カイに向けた銃口を数センチそらした。そのことが二つの出来事を引き起こした。ひとつは銃口がずれたために一発の弾丸がカイの顔のすぐ横を通って、背後の壁と天井の境に着弾したこと。もうひとつはカイが狙いとしていた銃を掴み損ねたこと。カイはハッとしたが、既にその右腕を止めることが出来ず、そのままの勢いで掴んでしまった。銃を持つ総督の腕に。
総督は「ひっ」と小さく短い悲鳴をあげると、赤い光に飲まれ瞬く間に塵と化し消えてしまった。カイはよろめき数歩あとずさりした。体は震えていた。自分ではそんなつもりはなかった。総督が消えたことだって、人々が一般的に思うようなやり方ではなかった。それでもカイは総督を殺してしまった。いや、消してしまったという方が正確だろうか。どちらにしてもカイの心に重くのしかかった。
気が付くとカイの背後にアルマが呆然と立ち尽くしていた。いつから部屋に入ってきていたのだろう。銃声を聞いてだとしたら、アルマはどこから見ていたのだろうか。カイは青ざめた顔でアルマを見た。アルマはようやく口を開いた。
「総督は?」
「…もういない。」
「そうか…」
アルマはそれ以上何も聞かなかった。やはり見ていたのだ。
「…攻撃中止命令を出せるか?」
「あ、ああ。」
「そうか。後は頼む…」
カイはおぼつかない足取りで司令室を出た。彼はひどく疲れていた。頭は何も考えられずにいるのに、自分のしてしまったことがいつまでも思考を支配し、頭がずっと痛んでいた。
カイは人目を避けて独房に戻った。壁伝いに両足を引きずるようにして帰ってきたカイを見て、ラルフはとても心配していた。
「帰ろう。」
ラルフはそう呟いたカイを不安げに見上げた。
「大丈夫だよ。収容所はもうすぐ解放される。きっと良くなるよ。」
「…うん。」
ラルフは自分の借りていたマントをひどくつらそうなカイに返した。カイは体に大量の汗をかき、その目は虚ろだった。混乱する兵士達の目の届かない場所を選んで、二人は人知れずエウターナに帰っていった。
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