短編小説「サイドローグ」3

 

 二人は並んで水の枯れ果てたプールの底に座り、その側面に寄りかかっていた。一息ついている若葉の耳に、かすかに唸るような機械音が聞こえてきた。

「ノイス…この音って…」

若葉は恐々とノイスを見た。ノイスは平然としていた。

「ああ、僕の充電の音。大丈夫だよ。」

「充電?充電が必要なの?」

「うん。」

ノイスはだらけたように座ったまま話し始めた。今はもう二人はお互いに助け合った事もあって随分打ち解けていた。ノイスの堅苦しいしゃべり方を聞くことはなかったし、若葉も警戒していなかった。

「機械の体っていうのはコンピューターの体のことだから、電源が必要なんだ。僕の体の中にも永久燃料が入ってる。最新のモデルなら何をしていても充電されるんだけど、僕は試作型(プロトタイプ)だから少し大人しくしていないと…。ちょっとエネルギーを使いすぎた。」

ノイスは小さく息を吐いた。それから少し間をおいて、決心したように若葉が切り出した。

「ねぇ、少し聞いてもいい?未来のこと。サイドローグってどんな技術なの?」

ノイスは横目で一瞬若葉を見やると、今度は体勢をきちんと直して若葉の方を見た。

「サイドローグは一言で言って全身総入れ替え手術のこと。手を。」

ノイスは右手を差し出して、若葉にそれに触れるよう言った。

「何を感じる?」

「…体温。」

「そう、体温。だけどこの右手も左手と同じ機械の手だ。」

「え?」

若葉に信じられないという感覚が戻ってきた。若葉が触れた左右の手は確かに暖かく、人間の手らしい柔らかさもあって、とても機械だなどとは思えなかった。

「手だけじゃない。足も頭も髪の毛も、内臓もそうだ。心臓も人工機器でできている。最初からあった肉体を全て機械に差し替える、それがサイドローグ手術だ。」

若葉は何もいえなかった。ただその大きな目を見開いて、ノイスの目を見つめていた。

「サイドローグ手術が人々にもたらした最大の功績は不老長寿だ。サイドローグ手術だけがそれを可能にする。例えば転んでどこかを切ったとしても、その部分を塞げばいいだけの話だし、骨代わりのボルトを折ったとしても繋げるか取り替えるかすればいい。内臓機器に不具合が生じたら、これは2100年でも病気と呼んでるんだけど、それも修理したり新しいものに入れ替えればいいだけのこと。どれにしたって痛みは伴わないし、絶対に完治できる。」

「それが長寿ってことなのね。じゃあ不老っていうのも…」

「ああ、同じだよ。元々機械は老いるだとかそういう代物じゃないけどね。まぁ、時々は錆びるとかあるけど、そういうのは新しいのに取り替えてる。」

「姿をとどめる年齢は決まってるの?」

「いや、前は機器の規格の問題である程度決まっていたけど、今はもうカスタマイズできるようになった。しかも年齢だけじゃない。例えば食べる事に楽しみを覚える人がいて、そういう人のために味覚を向上させるだとか、胃袋の性能をあげるだとかもあるし、逆に食事に時間を取られたくないって人がいれば、食べないで済むよう永久燃料の燃費をよくしたりもする。」

若葉はあからさまにしかめっ面になった。何か間違ってると思った。自分の目指す道の行き着く先がこんな風になるなんて。

 

「…だけど一つだけ人工機器化することができない臓器がある。」

ノイスは若葉の様子に気付きながらも話を続けた。

「脳ね。」

促されるまでもなく、若葉は即答した。

「そう、脳だ。人間の思考はコンピューターのようにプログラムできるものじゃない。だから機械の体にその人の脳を接続するんだ。それで心は人間のままで不老長寿になれる。」

若葉はノイスから目を逸らし、自分の膝に顔をうずめた。ノイスは気遣うように少しだけ話を止めたが、ややあってまた話し始めた。

「サイドローグ化が進んで、死因は著しく減少した。何しろ残った臓器は脳だけだからね。脳梗塞とか脳腫瘍とか、脳疾患においてのみ人は死ぬようになった。だけど脳疾患っていうのは長年の生活習慣や日々のストレスが原因になっているものが多いから、人々が社会の中で暮らす限り、脳疾患による死者の数は何年経っても変わらなかった。そんな状態がずっと続いて、政府は半ば躍起になってきた。何としても脳疾患を減らしてより不老長寿であろうと模索していた。そこで思いついたのが日常生活のマニュアル化だった。」

ノイスの声もだんだんと重くなってきた。言葉を一度切り、軽く深呼吸をした。

「もちろん脳はいじれない。マニュアル化したのは体のほうだ。毎朝の寝坊に悩む人には決まった時間に体が起きるようにセットしたり、ついお酒を飲みすぎてしまう人には、一定量のアルコールを摂取すると飲みたくなくなるだとか、日常の煩わしさをマニュアル化することですべて取り除いた。だけどこれが大きな間違いだった。」

ノイスは最後の言葉を苦々しげに言い放った。

「…どうして?」

若葉はやっと顔を上げて涙目でノイスを見た。

「脳の退化が起きた…!」

より一層深く静かに、そして重々しくノイスの声が響いた。

「脳は唯一残った肉体であり、人間である証拠だった。記憶や思考、行動を司り、常に働かせる事でサイドローグ化しても辛うじて人間でいられたんだ。でも脳疾患を減らす為に、日常生活に合わせて機械がマニュアル化されるようになった数年前から、脳は急激に退化し始めた。何も考えなくても体が動くから、人々は自分では何もしなくなったし、何も生み出さなくなった。より便利に、より長寿へと進化する代償に、人間は取り返しのつかないものを差し出そうとしている。」

若葉は自分の体を両腕でしっかり抱いて、じっと話を聞いていた。自分の中に反対する気持ちが強くあるくせに、それが言葉になっていかなかった。それでも口を開いて、ほつりほつりと声に出していった。

「何か変なの…。それじゃあまるで…まるで死にたくないから生きてるみたい。私、生きてるっていうのは、そういうのじゃないと思うわ。」

 

ノイスは若葉のその言葉を聞くと、安心したようにフッと微笑んだ。

「そうだね。僕もそう思う。ありがとう、若葉。ちゃんと話を聞いてくれて。それに僕のことも助けてくれた。」

ノイスが微笑んだのを見て、若葉も弱弱しいながらも笑い返した。どうしてノイスが危険を冒しながらも未来から過去に伝えに来たのか。それは未来は今からでも変えられるからだわ。まだ希望を持っていいんだ。でもそれなら…

「どうしてノイスは私のところへ来たの?」

若葉はずっと不思議に思っていたことをノイスに尋ねた。ノイスは充電が終わったらしく、立ち上がって帰り支度をしていたが、頭は別のことを考えているようだった。しばらくしてノイスは決意したように話し始めた。これ以上何も教えないか、こうなったら全てを話すかの二つしか選択肢はなかったのだが、ノイスはその後者を選んだのだ。

「君は…君は数年後に医者になるんだ。望みどおりにね。そしてとても優秀な女医になる。」

突拍子もないノイスの予言に、若葉はぽかんとした。それが自分のところへ何故来たのかの理由になるのだろうか。ノイスはそんな風に考えている若葉を半ば無視して早口に話を続けた。

「だから何年か経って君は政府の命令で、最年少で世界の隠密機関に配属されることになるんだ。その隠密機関というのが、クローン人間だとかサイボーグだとかの研究をするところでね、君はその中のサイボーグやアンドロイドの研究・開発をする部署に配属される。君はそこでもとても優秀な成果を挙げて、君の論文が元で救われる命も沢山あった。そして君がその機関に配属されて十六年が経って、君はある画期的な方法を導き出す、と同時に君の元にある少年が実験体として運び込まれるんだ。少年は事故で手足はちぎれ、内臓も手術なんかじゃどうにもならないくらいぐちゃぐちゃになっていて、脈も呼吸も止まる寸前だった。だけど少年の脳はまだ生きていた。君はその実験体を目の当たりにして、とても哀れに思うんだ。もう人間の姿をしていないのに、思考だけは人間のまま死んでいこうとする実験体を救いたいとさえ思った。そこで発見したばかりの方法を使って、その実験体をなんとか助けようとした。そしてそれは成功したんだ。」

若葉は何も言わずに聞いていた。正確には何も言えなかったのだ。自分が医者になれるとノイスが断言した時は素直に嬉しかった。しかし話が進んでいくごとに、まるで夢や想像とはかけ離れていき、しかも世界規模にも膨らむことを知ると、体が凍りついたように動かなかったし、座り込んだ地面に体が張り付いてしまったかのようにその場に立つことさえできなかった。

「まさか…その実験体に施した方法っていうのが…」

「そうだよ。サイドローグ手術だ。」

ノイスは非常に険しい顔つきで、しかし優しい口調で言った。

「君はその成功を隠した。完成していた論文を全て焼き払ったし、自分のしたことを後悔もした。もちろん実験体を助けた事をじゃない。悪用される危険性に後悔したんだ。でも遅かった。政府はその技術を戦争に使った。君の死後に戦争が終わると、人間を堕落させることにも使い始めた。君は死ぬまで後悔していたのに、政府はこれっぽっちも後悔なんてしなかった。」

「じゃ、じゃあ…私は…」

若葉は涙ぐんでいた。

「私は医者になってはいけないの?」

若葉をずっと動けずにさせていた思いが、口をついた。

「そうじゃない。君は医者にならなくてはいけない。そうして救われる命は君の未来の後悔も、今の君の絶望も拭い去るだけの力を持っている。さっきも言っただろう。政府機関に配属されてからだって救った命が数え切れないほどあるんだ。君が未来にしてはいけないのは、あの実験体を救う事だ。辛いことかもしれないけど、そいつを見殺しにしなくてはいけないよ。」

「そ、そうしたら…未来は変わる?」

若葉はこぼれ落ち始めた涙を何度も拭いながら聞いた。

「変わるよ。」

ノイスは膝をついて若葉と目線を合わせて、もう一度言った。

「きっと変わるよ。僕のいる未来は変わらずに存在し続けるけど、君が決意を揺るがさずにいれば、僕のいない違う未来が必ず訪れる。だから僕がいう「さよなら」をそのときの言葉だと思って覚えていて欲しい。」

若葉は何度も何度も強く頷いた。そのたびに涙が一度に何粒も落ちた。ノイスは立ちあがって転移装置のボタンを押そうとした。しかしその手を止めて、もう一度ひざまずくと若葉を強く抱き寄せた。若葉の涙は、今一段と大粒な物となった。

「ごめんね…ノイス。ごめんね」

若葉は無意識に何度も謝った。

「君の「ごめん」はもう聞きたくない。生前に何度も聞かされてたから。」

そういうとノイスは息が止まりそうになるくらい強く若葉を抱きしめた。しかし若葉にとってはそうしてもらうことが嬉しかった。

「それじゃあ、僕は行くよ。」

ノイスは立ちあがって今度こそ転移装置を起動させた。ノイスの体が縁取られるように光り始めた。

「さよなら、若葉。ありがとう。」

微笑むノイスの頬に涙がつたった。

「ノイス!!」

シュッという音がして男は消えた。風だけが変わらずに若葉の側をすり抜けていた。

 

 

 

 5年後、若葉は確かに医者になっていた。この5年間、若葉の思いは変わらなかった。そしてこれから先も変わらずに持ち続けていく決意があった。未来の分岐点で待つ、死の再会のその時まで。